KSKS(クスクス)見聞録

今日も1日がんばる

もがきながら考える大切さ

よく上司に「自分で考えてみろ」と言われる。

 

このゴールデンウィーク期間中、深く考えるためにはどうしたらいいのかずっと考えていた。頭がよくなりそうな本を読んでみたり、頭に入りそうという理由で手書きで自分の思ったことを手当たり次第書いてみたり、音読をしてみたり。どれも自分にとって糧になる試みだったと思う。そのうちどれが一番良い方法だったのかというのはまだわからない。しかし、結果的に連休前よりはあるテーマについて深く理解出来るようになったつもりだ。なぜそれが出来たのかと言えば、論理的な繋がりを持った自分の言葉になるようにもがいたから、ではないか。

 

人の言葉は、どれだけそれに対して時間をかけて深く思考したのかによって伝わる熱量が変わるといまの私は思っている。なので、もし伝えたい何かがあるのなら1秒でも長く考える時間を持ち、もがくことが大切なのではないだろうか。

やらないと終わらない

やらないと終わらない。

 

GWを惰性に過ごした私が学んだこと。休み期間中に片付けなければいけない仕事がいくつか残っていた。私はバカなことに、布団の中でひたすら自分がやる気になるのを待っていた。でもいつまで経ってもよしやってやろうというモチベーションは上がらなかった。結局、タイムリミットまであと8時間という今になってやっとエンジンが掛かるという体たらくぶりである。でも一つ学んだ。それは、やる気は待ってても来てくれないし、いくら計画を立ててもやり始めるとその計画はいとも簡単に壊れるから、さっさと早い段階でやり始めて適度に休憩を取りながら継続的に作業するのが一番良いということに気づいた。

 

明日からこの教訓を活かせたらいいな。とりあえず、朝まで頑張る。

ブログに関するちょっとした思い出

これまで、色々なブログサービスを使ってきた。

 

例えば最も記憶に古いサービスだと、mixiである。一番使っていた2006年当時のmixiは、招待制でかつマイミクもかなり濃い人たちが集まっていた。はてなライブドアなどのサービスに比べて、かなりクローズドなブログコミュニティだと思うが、その分濃密なコミュニケーションをすることが出来た。反対に濃密だからこそ、誰かからの評価を気にして、自由に物事を書けないということもあった。いまのFacebookのフィードに投稿するような感覚だったのかもしれない。当時どんなネタを書いていたのかを思い出してみると、やはり今とあまり変わらないようなポエム系の日記だったように思う。なので、生来の性格としてバズるブログのようなものは、自分には書けないのだなと思い返してみて感じた。でも、そんな投稿でもリアクションをしてくれるマイミクがいたから、今でも自分の気持ちを文章にすることが好きなままでいられている。もうログインすることもないし、出来ないので彼らにもう出会うことは一生ないと思うが、人知れずありがとうという気持ちになったのであった。ここ、はてなブログでも何かしらの新しいコミュニケーションや繋がりが生まれたら嬉しいと思っている。

音読を始めてみようと思う

高校生の頃から「音読」に何回かチャレンジしたことがある。

 

ここでの音読とは、文字通り目の前の文章を声に出して読み上げることである。何故このようなことをするのかと言えば、私自身の文字の認識能力があまり高くない(と思い込んでいる)ので、文章を読んでもなかなか頭に入ってこず、勉強や仕事でたびたび困ることがあるため。自分が文章を書く時は大して大きな問題にはならないのだが、他人の思想や文章を自分の中に取り込む作業がとても苦手なのである。しかし、音読をすることによって、視覚情報と聴覚情報の二つの経路から情報を摂取することが出来、個人的に認識精度が上がっている気がするのである。今までは音読をしている中で、喉が疲れてしまったり、面倒になってしまってやっては止めを繰り返していたのだが、今回は少しブログで経過をレポートしながら継続していきたいと考えている。ちなみに、いま書いているこの文章も音読しながら書いている。声に出しながら執筆した文章には、「音読タグ」を付けてみようと思う。興味のある方は、私と一緒にチャレンジしてみて欲しい。

古い男友達

約半年ぶりくらいに中学時代からの友人2人と食事をした。

 

私は中高一貫の男子校出身なので、当然彼らは男である。いわゆる、古い男友達というやつだ。頻繁にメールをするわけでもなく、毎月会っているわけでもない。顔を合わせるのは1年に一回か半年に一回。不思議なもので、時間がいくら経っても会えば当時の記憶がよみがえり、お互い中学生の時と何も変わらないように話が出来る。社会人になってから出会った人とは話せないような下品な話題であったり、一方で将来について真剣に語り合ったり。とにかくこの相手、この空間でしか出来ないという感覚がある。もちろん、大学時代以降にも素敵な出会いはたくさんあった。しかし、自分が最もセンシティブな感覚を持っていた中高時代にあの時にしか出来なかった思い出を紡いだ友人というのは、かけがえのない存在だし、これからも大切にしていかないといけないなと思った。大人になってからの人間関係のメンテナンスは大変だし面倒だけど、こういう定例会のようなお互いの生存報告をすることは大事だなと思った。

 

直接こういうことを言うと恥ずかしいのでブログに書いた。

 

 

利他精神

あなたは、何のために仕事をして、誰のために生きているだろうか。

 

私は、自らのスキルアップやキャリアステップを第一に考えて仕事をしていた。クライアントのためと言いつつも、心のどこかで自分ファーストの意識は常に持っていた。しかし、最近そのような考えをある人に見透かされ、打ちのめされた。自分だけを可愛がる人は、社会の中で孤立し、弱くなっていく。その弱さを認められない者は、誰からも必要とされなくなり、負のスパイラルに落ちていく。もしあなた(私)が、より善く生きたいと願うならば、自分の幸せは他者の幸せの中にあるということを理解し、実践していかなくてはならない。私もまだ旅の途中だ。

因果応報

Amazonプライム梁石日原作、雀洋一監督の『血と骨』を観た。

 

血と骨 通常版 [DVD]

血と骨 通常版 [DVD]

 

 1930年代の大阪を舞台に朝鮮・済州島から渡ってきた金俊平の激動の半生を描く。

 

こと細かな映画評は、Amazonのレビュー欄に任せておくとして、私がこの映画を観てはじめに持った感想は、人間の人生は因果応報だな、というものだった。

 

主人公の金俊平は、並外れた暴力性と色欲を持った男で、周囲の人間を常に不幸にしていた。しかし、金の悪行が老いによって失速してくると、彼に恨みを持つ周囲の者は家族でさえも冷たい態度を取るようになる。もちろん、彼の行いは許されるものではないし、復習されて当然、むしろ映画の構成としては最高にスカッとする場面だ。だが、あれだけ優しい顔をしていた母が金に対して放った一言「いっぺん死ね」。というセリフに始まり、その他の人間も彼に機会あらば躊躇がない暴力を加えるようになる。自業自得と言われればそれまでだが、人間が他者に与えられた恨みや行動の結果というものは、結局は自分がした行いに比例して返ってくるのだなと思った。

 

映画を観ながら自然と自分のこれまでの人生を振り返りつつ、2時間半という長さを感じさせない映画だった。